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高校進学のススメ

藤井聡太四段が高校へ進学するか悩んでいるというネット記事を見ました。

本人に将棋界で一生やっていくという強い意志があるのであれば

高校進学をしないという選択肢も悪くないと思います。

ただ、もしも私が彼の母親だったら、高校進学して欲しいと思うでしょう。

 

本人に高い学習能力があるうえに保護者など周りから勉学に関する支援があったり、

もしくは集団生活にどうしても馴染めなかったり、

または何等かの家庭の事情があるなど、

高校に進学しないという選択もあるでしょう。

もちろんそのことは否定しません。

高校に行かなかったからといって幸せになれないわけではないから。

実際、中卒でも社会的に成功している人はいます。

ただ、高校に進学することが可能であれば、進学した方が良いと思っています。

 

「学校で習うことは世の中に出た時に役に立たない」とよく言います。

確かに教科書に載っていたことは多くの人にとって

社会に出てからあまり役にたたないことが多いでしょう。

しかし、学校で習うことは勉強だけではありません。

中学校以上に「学校」「クラス」という閉ざされた世界は広がり、

更なるコミュニケーション能力を求められたり、

更なる自己の劣等感との闘いがあります。

 

また、勉強からも学んでいることはあります。

「知識を得る」ということを通して

「考える力」「忍耐力」を鍛えていると思っています。

暗記するにも効率的な暗記方法が必要ですし、

また公式を覚えてもどう使うか発想力が必要でしょう。

中学とは比にならない努力が必要です。

そして、その学習行為を続けるという忍耐力が鍛えられます。

 

高校生活で学ぶ社会性は決して小さくなく、

大げさにいえば社会という荒波に出るための準備運動の一つです。

 

高校進学せずとも得られる社会性も否定はしません。

ただ、高校で得られる社会性は効率的だと思っています。

高校に進学できるチャンスがあり、集団行動に拒否反応がなければ

高校に進学することを勧めます。

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占いは見つめなおすキッカケ

家具の角に足の小指を強打し、

数日後に逆の足の甲にスマートフォンを落としてしまいました。

結果、両足をケガし、どうにか歩くことはできましたが、

まともに走ることは不可能でした。

骨にヒビが入っているのではないかと思ってしまうほど、

今もまだ小指は痛いです。

 

短期間で両足をケガするなんて、ただの不注意と思えない。

というか、何か意味をつけたくてネットを調べたところ、

「年下や後輩に配慮を怠っている」

「一度立ち止まって見つめなおす」

というスピリチュアルな意味合いが出てきました。

確かに思い当たる節があり、

ぐぬぬ・・・」と唸るしかありませんでした。

職場での人間関係や態度を改めようと考えています。

 

スピリチュアルなんて非科学的だという意見はごもっともですし、

すべてを信じなくて良いと思います。

ただ、「病は気から」という諺もあるように、

占いの良い結果をポジティブに受け止めれば

日々の行いが良い方向に進むと思っています。

 

また、私にとって、占いの悪い結果は信じるものではなく、

自分を見つめなおすキッカケだと思っています。

何かしら少しでも思い当たることがあれば直していけば良いし、

何も思い当たらなければ信じなければ良い。

それだけのことです。

 

自分を見つめなおすために占いは良いキッカケだと思います。

幸せは等価交換

精神論の話になってしまうかもしれませんが、

「幸せは等価交換」だと私は思っています。

 

いや、厳密にいうと「等価交換」ではないです。

苦労や試練を重ねれば重ねるほどそれに見合った幸せを体験し、

大して苦労や試練を経験せず過ごせばそれなりな幸せしか感じない。

そう思っています。

 

もちろん「幸せ」という概念は人によってとらえ方が違います。

だからこそ、苦労や試練を含んだ多くの経験を積むことで

様々な人と出会って世界が広がりますし、

そして何が「幸せ」なのかを経験を通して学習して理解し、

結果、「幸せ」だと感じる場面に多く出会うのでしょう。

逆に言えば、苦労や試練を体験しない人は

何が「幸せ」なのかもわからないし、

「幸せ」を「幸せ」として感じていない可能性があります。

 

人それぞれがどう人生を歩むかは自由です。

ただ、目標に向かっている途中に苦労したり

突如としてハプニングに出会って落ち込んだとしても

「これから幸せの波がくる」と信じてみるのも悪くないと思います。

私はそう思って生きています。

 

 

「苦労は買ってでもしろ」

この諺の重みを年を重ねれば重ねるほど痛感します。

若い時から様々な経験を通して苦労をしていれば、

もっと「幸せ」を感じていたかもしれない。そう思います。

 

しかし過去に戻ることはできません。

今からどう人生を歩むか。どう「幸せ」を感じるか。

後悔しない道選びをしていきたいです。

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不倫は本能である

地球上の他の動物と比べ、人間が進化してきた理由の一つに、

「社会性」があると思います。

個々の欲望を一律の秩序で統制し、協力することで

「地球は自分たちのもの」と錯覚するほどの繁栄を手にしているのでしょう。

 

ただ、それでも人間は動物です。

法律で一夫一婦制だと分かりつつも、

妻以外の女性と肉体関係をもつことを不倫といいますが、

不倫をする根本的な理由は「本能」じゃないかと思っています。

 

多くの人間は他の動物と同じく、

「子孫繁栄」を遺伝子レベルで課されています。

男性はより多くの女性と子供を作りたいし、

女性はより優秀な男性の子供を作りたい。

どちらも本能だと思います。

ですので、男性有名人の不倫報道を見かけると

「本能に動かされたんだなぁ」と思ってしまいます。

女性は優秀な遺伝子を残したいと男性に寄っていくでしょうし、

男性も周りに女性が集まってくれば気持ちが動くこともあるでしょう。

しかし、法律という一定のルールをつくることで、

個々の感情を一定に保ち、理性で物事を進めることで

社会を築いてきた人間社会にとって不倫はタブーだと思います。

 

ただ、昨今の日本は少子化と言われてもうずいぶん経ちます。

多くの人が結婚し子供をつくりたいでしょうが、

結婚相手との出会いだったり経済的な問題で難しいこともあるでしょう。

そのため、少子化対策として、

一部の人間(男性)のみ一夫多妻制でも良いのではないかと思っています。

もちろん「安定した年収(数千万以上)がある」

「年収によって世帯制限がある」

「子供が成人するまで居住地域の制限」

など一定のルールを設ける必要がありますが、

「経済的に余裕がある」ということは

「人間社会を生き抜いていく何か優秀な才能を持っている」ということであり、

女性も本能で優秀な遺伝子を見極めるといわれていますので

結婚相手をみつけることは比較的容易でしょう。

今後も日本が繁栄していくうえにも効率的ではないでしょうか。

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「東京生まれ東京育ち」に出会わない

東京に住んでいると、「少子化って本当?」と錯覚してしまうくらい

多くの子供と遭遇することがあります。

もうずっと東京に人口が集中しているので、

自然と「東京生まれ東京育ち」が多いのだろうと思います。

 

しかし、仕事になると「東京生まれ東京育ち」はほとんど見かけません。

私の周りにいる社会人はほとんどが地方出身。良くて関東圏出身。

東京の人口比率が、未成年より成人の方が高いということもあるのでしょうが、

それにしても「東京生まれ東京育ち」をほぼ見かけません。

「東京って田舎者の集まりだな」と未だに感じてしまいます。

 

大した学歴がなく、未経験の業界に飛び込んだ私にとって

実力主義な世界でしか働いていないということもあるのでしょう。

私が東京に出てきた理由は「ほぼ東京でしかやれない仕事」でした。

ほかにも何かしら「東京で働く必要」をもって全国から人が集まってきます。

 

そうすると自然と生存競争が始まります。

会社内の同僚との競争ではなく、自分との闘いです。

東京で生きていくには家賃を毎月払わなければいけないし

もちろん光熱費や食費などもかかります。

生活に余裕をもつためにはお金が必要で、

そうなると会社に結果を見せて評価を上げ給与を上げることが

手っ取り早いです。

もちろん結果を出せば

自分自身のスキルアップやキャリアアップにも繋がります。

 

「実家暮らしだから働かなくてもしばらくどうにかなる」

「親が近くにいるから安心感がある」

といったことが地方出身者にはなく、

どこか生きていくための危機感というか緊張感がありますし、

結果、仕事に対する意欲ややる気に違いが出るのではないかと感じます。

そうなると、実力主義の世界では

自然と地方出身者が評価されやすく、自然淘汰されにくいのかもしれません。

 

もちろん仕事だけに生きがいをみつける必要はありませんので

法に触れず人に迷惑をかけない範囲で自由に生きていけば良いと思います。

 

ただ、人は生きていく中に緊張感がないと成長しづらい生き物なのでしょう。

ペットは家族?

「ペットは家族」という言葉に違和感があります。

もちろん動物虐待を肯定しているわけではなく、

ペットを飼うのであれば愛護すべきです。最期まで看取るべきです。

 

ただ、たぶん私の経験が豊かで幸せではなかったのでしょう。

「家族」とは選ぶものではないし、

どんなに相性が悪くても何か障害が発生しても縁を簡単に切れるものでもないし、

大なり小なりお互いに情と責任を持つべきだし、

そんな中でも折り合いをつけて互いの幸せのために努力すべきだと思っています。

 

ですから、ペットショップなどで種類と見た目などで決めてしまうことに

違和感を感じてしまうし、

可愛いというだけで躾をまともにしないことに違和感を感じます。

正直、「ペットはペット。愛玩動物なのだから、動くぬいぐるみ感覚。」

と言い切ってくれるぐらいの方が

「動くぬいぐるみの手入れ方法教えるから死ぬまで面倒みてね!」

と割り切れるとさえ思っています。

 

また、「家族」と思っているのは人間側であって

ペットである動物がどう感じているかわかりません。

動物側に選択肢は最初からない場合が多いですから、

人間と一緒にいることが求められ、自由な行動を制限され、

発情すら制限されることがあるのですから、幸せなのかすらわかりません。

(そもそも動物によっては「家族」という概念がない可能性もありますが・・・。)

 

動物にとっての本当の幸せは本能に沿って生きることであり、

人間社会とは遮断した野生の中で生きることかもしれないとも考えているので

そういう意味でも「ペットは家族」という言葉に違和感を感じます。

 

動物にとっての幸せを考えれば考えるほど、私はペットを飼えません。

そしてペットショップの存在や人間の存在まで考えてしまいます。

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地球は誰のもの?

私は田舎育ちです。

田植えの準備(という名の遊び)や稲刈り(という名の遊び)を手伝っていましたし、

祖父が所有している山にタケノコ掘りにも行っていましたし、

遠足も野イチゴ摘みで山の中を歩き回っていました。

山の中で迷子になるかもしれないという恐怖も味わいましたので

その経験から自然の怖さを多少なりとも分かっているつもりです。

だから、人間が自然を把握し利用しようなんて烏滸がましいとも思いますし、

地球すべてがまるで人間のもののように扱うのは勘違いだとも思います。

あくまでも人間は地球の中で間借りしているという認識です。

 

インフラの整備や商品等の輸送など、

自然の中で仕事をしていた場合は仕方ないのですが、

遊びで気軽に自然に踏み込んで事故に遭うのは

自然を軽んじているように思えて仕方ありません。

もちろん、自然でなくとも、

人間は一度痛い目に遭わないと怖さが分からないということも分かります。

ですから、救助を実費請求するなどのペナルティを

設定すべきだと思います。

 

それでも山や海に行きたい。自然に挑戦したい。

その気持ちを否定はしません。自由です。

ただ、自然の中で死ぬこともあるという覚悟は持ってほしいですし、

むしろ「山や海で死ぬことが本望」ぐらいに思っていなければ、

自然や地球に対して失礼です。

多くの動物は、遊びではなく、

地球という中の自然と闘い共存しながら生きているのですから。

 

そして、人間が生活をしていない山や海にあえて入っていくのであれば、

自然を汚してほしくないです。

人間はあくまでも地球の中で間借りしているだけなのですから

自然を汚せば、必ずどこかでしっぺ返しがきます。

地球は人間のものではないです。

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